林達次先生プロフィール
林 達次 (音楽総監督・指揮)
東京音楽学校(現東京芸大)を1947年に卒業。 2度にわたりウィーン国立アカデミーに留学。木下保、朝比奈隆、F.グロスマンに師事。 リサイタル、オペラなどの演奏活動を行なう傍ら、京都女子大学、神戸女学院大学、大阪音楽大学などで後進の指導にあたる。 1973年以来バルセロナのマリア・カナルス国際音楽コンクールの審査員など、国内外の各種コンクールの審査員を勤める。 《林達次オラトリオシリーズ》を主宰し、これらの音楽活動によって、大阪府民劇場賞、ザ・シンフォニーホールクリスタル賞、藤堂音楽賞などの音楽賞を受賞。 2000年11月3日には勲三等瑞宝章を受章。2003年12月6日逝去。
林達次先生 略歴
1924年1月21日 京都生まれ。
2003年12月6日 西宮自宅にて逝去。

学歴
1937年3月  京都府師範学校付属小学校卒。
1942年3月  同志社中学卒。
1947年3月  東京音楽学校(現東京芸術大学)甲種師範科卒。
1955年 総理府科学技術庁海外留学生試験合格。
1955〜57年 ヴィーン国立音楽院に留学。
1971年 私学振興財団より再びヴィーンに留学。
木下保教授、朝比奈隆教授、フェルディナンド・グ ロースマン教授に師事。

職歴
1947年 大阪第一師範学校文部教官。
1948年 京都女子専門学校教授。
1950年 京都女子大学専任講師。京都女子大学助教授。
1967年 神戸女学院大学音楽学部教授。
1979年 同学部長。
1980年 大阪音楽大学講師。
 神戸女学院大学名誉教授。

大阪放送合唱団、大阪朝日放送合唱団、混声合唱団京都木曜会、豊中混声合唱団、その他、を客演指揮。
1967〜1980年 同志社学生混声合唱団常任指揮者
1950〜1977年 大谷楽苑合唱部専任指揮者
1963〜1980年 龍谷混声合唱団常任指揮者
1963〜1980年 京都女子大学合唱団常任指揮者
1977〜2003年 京都ゲヴァントハウス合唱 団音楽監督
1982〜2003年 大阪ゲヴァントハウス合唱 団音楽監督

訳書出版
1971年 エミー・ジットナー著「芸術歌唱への 道」(カワイ楽譜)
1982年 エミー・ジットナー著「芸術歌唱のための発声法」(音楽 の友社)

1972年 樋本栄、浦山弘三両氏と共に、日本 シューベルト協会を設立、同人40名によるシューベ ルト歌曲全曲(ペーター版)演奏を完成。
1973〜2003年 毎年、バルセロナ市マリア・カナル ス国際音楽コンクールの審査員をつとめる。
1977年 京都ゲヴァントハウス合唱団を設立。
1982年 大阪ゲヴァントハウス合唱団を設立。 両団を率いて、海外演奏旅行、オラトリオシリーズを行 なう。
1985〜1988年 国際歌曲コンクール運営委 員長及び審査員。
1985〜2000年 毎年、宝塚市ベガホール ヘンデル =メサイア指揮。
1997〜1999年 毎年1月17日、西宮市 阪神大震災追悼モーツアルト=レクイエム指揮。

受賞
1972年 マタイ受難曲特別演奏会の指揮に対し昭和47年大阪府民劇場賞。
1978年 シューベルト協会によるシューベルト全曲演奏と、没後150年記念ミサ曲ト長調の演奏に対 し、昭和53年大阪府民劇場賞(グループ)。
1983年 渡欧記念公演に対し、大阪文化祭奨励賞。
1986年 関西合唱連盟・長井賞。
1990年 ザ・シンフォニーホール国際芸術賞(ク リスタル賞)グループ。
1992年 藤堂賞
1993年 京都音楽家クラブ
1997年 大阪市 市民表彰。
2000年 勲三等瑞宝章を受章

林達次先生と京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団

1977年、約40名の音楽専門教育を受けた声楽家のプロによる京都ゲヴァントハウス合唱団が林達次教授の手により設立されました。当初後援母体となった京都西陣繊物会館にちなんでGewandhaus(織物会館)Chorと命名され、5年後の1982年には大阪ゲヴァントハウス合唱団が設立され、以後20余年にわたり京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団として林達次教授の指揮の下、数々の素晴らしい演奏の軌跡を残しました。特に1986年から1996年にわたる十年間は<林達次オラトリオシリーズ>の核となる合唱団としてその真価を発揮し教会音楽を演奏する合唱団としての評価を固めました。また同じ時期、教授はこの京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団を率いて創立当初から海外公演を積極的に行い、1986年にはローマ法王庁の公式招待により聖ピエトロ大聖堂で日本の合唱団としては初めて教皇ヨハネ・パウロ2世に謁見演奏を行ないました。1989年にはウエストミンスター寺院, 1993年には聖シュテファン教会で献唱を,1995年にはスペイン・サクラダファミィア,1997年にはメンデルスゾーン没後150年祭に招かれゲヴァントハウス小ホールや聖トーマス教会で、2001年にはウィーン楽友協会大ホールで「マタイ受難曲」を演奏しました。2003年には東京すみだトリフォニーホールで記憶に残る演奏を残しました。
創立者であり指揮及び全てにわたる音楽総監督として両合唱団を率いてきた林達次教授は、2003年12月6日永久のの眠りに就きました。2004年12月6日の一周忌には、永年林教授を支えてきた日下部吉彦氏のプロデュース、また東京音楽学校時代からの無二の友人である浦山弘三教授の音楽監督・指揮にり「林達次先生を偲ぶコンサート」が執り行われました。

林 達次 音楽生活50周年記念インタビュー


2001年9月ウィーン楽友協会大ホールにて

・・まず生い立ちからお伺いいたします。
京都生まれ、京都育ちです。付属小学校から同志社中学へ進学、そして中学4年の時に大東亜戦争が始まりましたが、昭和17年に卒業、1年後の昭和18年に東京音楽学校に入学しました。でも時代が時代でしたので、学校へ通ったのは昭和19年の9月までの1年半ほどでした。
その後軍隊へゆき、昭和20年に復員して東京に戻ったときには、一面の焼け野ケ原で勉強どころではなく、食べていく為に学外へ出て、進駐軍廻りのジャズバンドに参加し、ピアノを弾いていました。
・・ジャズは得意だったのですか。
とんでもない。バンドに参加したのは良いけれど、最初はコードネームだけの楽譜なんぞとても弾けなかったのです。食べるために仕方なく毎日弾いているうちに慣れてきて、簡単なアレンジ等もやるようになりました。音楽学校での勉強よりもよほど実践教育になりました。例えば、当時の羽田の米軍キャンプなどへ演奏に行き、1ヶ月ほどそこに滞在して演奏すると、その間の衣食住は安泰なわけです。
そんな事をしているうちに時間は経過し、まだまだ卒業せずに勉強を続けたかったのに、昭和22年に無理やり卒業させられてしまいました。留年を希望したのですが、校長室に呼ばれ、大阪の女子師範学校への就任を命ぜられました。実は音楽学校では師範科に在籍していたのです。当時の事情では、男が音楽をやるなんてとんでもないということで、漸く師範科への推薦状しか書いてもらえなかったのです。
・・声楽との関わりはどの辺りからですか。
東京音楽学校への男性の入学者は、各地の師範学校を卒業して教師になった後、再入学する社会人がほとんどで、中学卒業者は4名だけでした。ですから若造の私達とでは話も合わないし、クラスの中で我々は浮き上がった存在でした。積極的に教師になる気もなく、多少歌が良かったのでそちらへでも進もうかと思っていた時、日本青年会館で木下保先生のリサイタルを聴き、感激しました。全く世界観が変わるほどの出来事でした。その曲目は信時潔さんの日本歌曲でしたが、 当時はリサイタルといえば外国の歌と相場が決まっていましたから、私へのインパクトは大層なものがありました。是非木下先生のレッスンを受けたいと思い、卒業して関西に戻って、音楽活動をしながら東京へ通いました。先生のレッスンは大変厳しいものでしたが、私にとっては黄金の時間でした。そして自分のリサイタルらしきものも、昭和22年の12月に同志社のチャペルで開きました。ところがそれが大阪の女子師範学校の上司の気に入らなかったのでしょう。また私の方も若気の至りということもあって衝突し、 1年で女子師範を辞めてしまいました。
・・それでどうなさいました。
有り難いことに、京都の上村けい先生のお誘いを受け、京都女子専門学校、後の京都女子大学に就職しました。学校で教鞭を執りながら、ドイツリートや日本歌曲を歌っていましたが、昭和24年に同志社学生混声合唱団の演奏会で、森本芳雄先生指揮によるメサイヤのソロを歌いました。これが音楽界への本格的なデビューだと思います。それから今日まで50年(注:平成11年時点)になります。
・・オペラデビューはいつ頃ですか。
昭和28年に関西歌劇団でオペラデビューをしました。その頃には木下先生の薫陶を受けて、リートやオペラアリアでリサイタルを度々開きました。そして同じ時期に、バッハのマタイ受難曲のイエスを、京都混声合唱団の演奏会で初めて歌いました。指揮は山田一男氏でした。今から思えば怖いもの知らずだったのですね。
・・宗教音楽との関わりは、何が切っ掛けですか。
私の音楽の出発点は、同志社のホザナコーラスなのです。ですから音楽学校で和声法を習う前に、賛美歌を通して和声の感覚が自然と身に付いていたのです。これは私にとっては大きなことでした。現在行っている音楽活動は、結局私の原点に戻ったということです。
・・ウイーンへの留学はどのようにして決まったのですか。
ウイーンへはこれを勉強に、というはっきりとした目的というより、戦争時代の灰色の学校生活ではほとんど勉強らしい勉強をしてこなかったので、もう一度最初からやりたいという気持ちと、ベートーベンやシューベルト、モーツアルトが活躍していた所を、自分の目で見てみたいという気持ちが強かった。当時は生でヨーロッパのオーケストラの演奏やオペラを聴くなんてことは、まず出来ないことでした。だからそれを聴きたかったのです。でも初めは、ウイーンでもアメリカでも何処でも良かったのです。ところが既にその時は結婚をして子供も生まれていたので、何とか官費による留学をしようと思ったのです。でも今のように簡単に外国へ行ける時代ではなく、留学先に受け入れてくれる人がいなくては駄目でした。私にはそんな知り合いも親戚も無かったのですが、偶然にも家内の知り合いの方で、関川さんという人がウイーンの公使館に居られたので、受け入れをお願い致しましたところ、快く引き受けて下さいました。それで行き先はウイーンとなりました。
・・すぐに出発されたましたか。
いえ、先ず留学するための試験を受けなければならなかったのです。これに通らなければパスポートも発行してもらえないし、外貨も換えることが出来ない。そこで外務省に問い合わせると、試験の日まで1ヶ月半しか無いというのです。しかも語学の試験があるとのこと。行き先はウイーンだから、当然ドイツ語です。音楽学校ではまともにドイツ語など勉強していなかったから、こりゃもうダメだと思いましたが、ある日、河原町通りをぶらぶら歩いていると、とある本屋で「ドイツ語4週間」という本を見つけ、これとひらめいて買い込みました。しかし本を開けてみると、とても4週間で一通り見ただけでは頭に入りそうにない。そこで課程の4日分を1日でやると、1週間で一通り出来る。これを4回、4週間繰り返したら少しでも頭に入るだろうと考えました。そしていよいよ試験に臨んだのですが、勉強の甲斐あって筆記試験は割と出来ました。ところが次に口頭試問があるという話を聞き、ああ、これでもう駄目だと思いました。何しろ2〜3名の枠に日本全国から数10名受けに来ているのだから、とても無理だと思いました。
・・結果はいかがでしたか。
自分でも信じられないのですが、試験官は「あなたのドイツ語はよく出来る」と言ってくれました。でも今でもはっきり覚えていますが、試験問題に「ゲーテはフランクフルト・アム・マインで生まれた」という文章があったのですが、この「アム・マイン」というのが解らなかった。フランクフルトは一つだと思っていたから、結局最後まで訳が解らず、言葉通り「マインのフランクフルト」と書いて出しました。そうして試験に通りました。次の問題はお金です。これは京都女子大学の学長の増山先生と上村先生に相談して、1年間の給料を前借りする事が出来ました。ピアノも売り、家内も女子大の寮長として再就職する事になり、大学のレッスンも音楽仲間の友人達が肩代わりしてくれ、その他にも大勢の方々のお助けがあり、漸く準備が整いました。
・・当時、ヨーロッパへ行くことは大変だったのでは。
そうです。現在のように簡単には行けませんし、何よりお金が無い。で、一番安かったのが船でした。勿論豪華客船ではなく、貨物船の客室です。昔はそんな方法があったのです。台湾、シンガポールと港に寄りながら、1ヶ月程かけてマルセイユに到着しました。そしてマルセイユからは汽車でパリまで行きましたが、何語を喋って辿り着いたのかは今でもハッキリとは解りません。とにかく無事にパリに着き、パリ在住の上村先生のお嬢さんにお世話になりました。着いたその晩にルビンシュタインの演奏会を聴き、やっと憧れの世界へやって来たと思いました。そしてパリからは飛行機でウイーンへ入りました。当時その辺りは連合国による占領状態が続いていて、陸路は危険だという話でしたが、実際にはその少し前に占領軍は引き上げており、問題はなかったようです。でもそのお陰で、初めての飛行機を経験できました。
そしてやっと到着したウイーンは、まだまだ瓦礫の山。えらいところへ来たと思いましたが、領事館から迎えが来て、飛行場からリングへと通り、そこに白く輝く、新しく復興したシュタッツオパーの建物を見たときは大感激でした。丁度映画「第三の男」の時代で、ウイーンが復興しつつある一番いい時代だったような気がします。ことに1956年はモーツアルト生誕二百年ということで、歴史的な名指揮者やオーケストラに依るコンサートやオペラが、毎夜のようにありました。ブルーノ・ワルターやベイヌム・ムラヴィンスキー等の巨匠達と、ウイーンフィル、レニングラードフィル、コンセルト・ヘボウ、プラハフィル等々で、今考えてみても卒倒するほどの豪華なもので、オペラでもカール・ベーム指揮のヴォツェックの初演やフィデリオ等の名演は、忘れられないものです。一方学校の方も、偶然師事した先生がフェルディナンド・グロスマン先生という神様のような方でした。この先生との出会いが、私の一生を大きく変えたといえます。
・・留学から帰られてからは、どうされましたか。
運のいいことに、帰国後すぐに京都女子大学に復職、その傍ら東本願寺の合唱団である「大谷楽苑」の指揮を、木下先生の元で見様見真似で勉強させて頂きました。手取り足取りで指揮法を教わったのではなく、木下先生がやっておられるのを見て、身体で覚えていきました。でも本業の歌の方は、帰国してから迷いが生じ、まともに歌えないスランプの時期が続きました。本物の料理を食べた後では紛わしい物は食べられない、といった感じでした。それを乗り切るのに10年かかりました。どうやら自分で行けると思ったのは40歳になってからです。でもその間に、有り難いことに朝比奈先生がオペラの下稽古をさせて下さいました。何年かやっている内に、私に合う役を朝比奈先生が見つけて下さいました。例えば「フィガロ」のバルトロ、「魔笛」のパパゲーノ、「ドン・ジョヴァンニ」のレポレロ等ですが、流石にフィガロをやれとはおっしゃらなかった。適材適所をよくご存じの朝比奈先生でした。
・・そして神戸女学院へ移られますね。
もともと非常勤で行っていたのですが、これには色々と経緯があり少しもめました。それでも最終的には、西本願寺の大谷光照法主と、神戸女学院の院長だった有賀鉄太郎先生とのトップ会談で、無事に解決し移籍しました。そして京都女子大学の方は、非常勤講師として働くことになりました。
・・宗教音楽に戻っていかれるのはいつ頃からですか。
1970年代の終わり頃からです。そろそろ自分の音楽をと考えた時、ゲヴァントハウス合唱団を作ろうと思ったのです。ウイーンのグロスマン先生をはじめ、私が尊敬する先生方は、合唱音楽の権威者ばかりだったのです。ですから自然に合唱音楽を通して、自分を表現しようということになった訳です。
・・宗教音楽から始まって、色々なジャンルを渡り歩き、宗教音楽へ収斂していくのですね。
そうです。宗教音楽、特にその合唱指揮へと踏み出しました。その為にはア・カペラの合唱だけではなく、オーケストラも振らなければならないのですが、朝比奈先生の下稽古で研鑽を積んだことが、大いに役立っています。例えばNHKのBK合唱団、ABC放送の女声合唱団全盛の頃、朝比奈先生のお声掛かりで指揮をする事になり、15分の番組を放送する為に、2時間のプローベしか時間がないのです。短時間で曲作りをする技術を、そういった経験から学びました。また、余り近くにいすぎると、音に対して冷静になれず、何が何だか解らなくなる事がありますが、離れると非常によく解ることも経験しました。練習を退屈させずにする事の大切さも、この時学びました。この様なチャンスを下さったNHKの荒牧さんや朝日放送の日下部さんには、心より有り難く思っています。
・・そしてその後に来るのが、シンフォニー・ホールでのオラトリオシリーズですね。
そうです。今まで私が学んだ事の集大成として、オラトリオシリーズを考えた訳ですが、当時のホテル・プラザの社長の鈴木さんや、朝日放送社長の原清さんをはじめ、多くの人のお陰で、シンフォニーホールで10回の演奏会を、無事終了させることが出来ました。その支えとなったのが京都と大阪の両ゲヴァントハウス合唱団です。それまで指揮をしていた学生合唱団では、それぞれの大学の事情や制約があって出来なかったことを、ゲヴァントハウス合唱団という自分で主催する団体を持つことによって、初めて実現する事が出来ました。
・・ゲヴァントハウス合唱団は海外へ何度も演奏旅行に行っていますね。
当初、演奏旅行というより、ゲヴァントハウス合唱団の団員に宗教音楽の出発点を見せること、つまりヨーロッパの教会の雰囲気やそこでの響きを、自分の耳と目で確かめてもらうことでした。絵に描いた餅を見てるだけでは味はわかりません。特に最初の演奏旅行では、ほとんど全員が向こうの聖歌隊隊員の家にホームステイさせていただき、普段、聖歌隊の皆さんが宗教音楽と、どのように触れあっているかを、知ってもらいたかったのです。つまり合唱音楽の実地研修旅行であり、それなりの成果はあったと思います。その中でも特に大きなイベントは、ヴァチカンでの御前演奏ですね。思えばこの50年は幸運の連続でした。自分の力というよりは、皆さんの力でここまで来られたように思います。それに私が出来ることは、もう余りありません。後は次の世代がやってくれます。
・・今後は・・・。
私としてはオラトリオシリーズを締め括りにと思っていたのですが、幸いまだ命も長らえているようなので、そのオラトリオシリーズの中で試してみた、日本の伝統芸術と西洋の芸術との違いと交流を、取り上げてみたいと思っています。既にシリーズの中で、能の「隅田川」とブリテンの「カリューリヴァー」のような組み合わせで演奏会を開催し、大変成功致しました。私達は西洋の芸術を勉強してきましたが、身体には日本人の血が流れています。ですから日本のものをやりたい。洋の東西の違いはあっても、きっと何処かに相通じるものがあるに違いないと思います。
例えば今思い当たるのは、黛さんの「金閣寺」のようなもの。多少題材はエキセントリックではありますが、単に日本の楽器で西洋の音階を演奏するのではなく、その融合ということに主眼を置き、接点を探ってみたいのです。そういう意味では、シリーズでやった原嘉寿子さん作曲の「マリアの生涯」も、その延長線上にあると思います。また日本の音楽の原点といえば、仏教的なもの、特に声明の様なものを取り上げてみたいですね。私は、時々奈良二月堂のお水取りを拝聴します。寒夜一人で千何百年続けている勤行を聴いていると時間と空間を無限にさまよっている様な気がするのです。題材の面白さではなくて、東洋的な物の感じ方を表現してみたいと思っていますが、まだ頭の中で模索している段階です。
・・それを実現する為には、何が必要ですか。
演奏家のみならず、作曲家、制作者、スポンサーと広範な人達との共同作業になるでしょう。とても私の命のある間では無理だと思いますので、後は若い皆さんに託しますが、100年ほど先になって、私が思い描いた演奏会が出来るよう道を切り開くのが、私の最後の仕事だと思っています。
・・後に続く演奏家に一言ございましたら・・・。
どんなに頑張っても、我々日本人にはモーツアルトをオーストリア人のように、ワーグナーをドイツ人のように演奏するのは難しいかも知れませんが、その音楽の中にある普遍的なものは十分に表現できる筈です。単なる和洋合奏をするのではなく、世界的な広がりを持つ西洋音楽を手段として、日本的なものを如何に表現するかを考えて頂きたい。日本の心や精神を世界に向けて発信するよう、心がけて頂きたいと思います。
1999年3月林達次先生の音楽生活50周年を記念するコンサート記念誌より

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