"My Clip Board"〜演奏会感想録
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[237] L. Luzzi - Ave Maria 投稿者:管理人 投稿日:2012/12/25(Tue) 08:36  
12月23日の待降節第4主日礼拝(クリスマス礼拝)に奏楽に替えて歌わせていただきました。


[232] 京都バッハ合唱団の「マタイ受難曲」 投稿者:松田紳 投稿日:2012/03/21(Wed) 11:39  
受難節第4主日(3/18)から二日後の昨日(3/20)いずみホールで京都バッハの奏でる「マタイ受難曲」を聴いた。

まだすこしばかり肌寒い風がふくなか、それでも「お彼岸」の日差しはやがて来る春を感じるに十分だった。
座席引換開始には遅れて行ったものの何故かH列という良い席を頂戴した。

冒頭の第一曲目がどのように始まるかじっと見つめるなか、指揮者のタクトは、端正なかつ少しばかり軽やかなテンポを要求するように動いた。奏者の中にはそれに素早くついて行くもの、あるいは受難曲という題名がもつ重々しい印象のまま弾き始めるものが入り混じり、ほんの一瞬の戸惑いがあるかのようだった。しばらくオケと指揮者のその戸惑いの対話が続いた後、第一コーラスが「来たれ、娘たちよ…」と歌い始めると音楽ははっきりと主張し始めた。それは、まるで今からエルサレムの街ではじまる物語に、聴衆を招き入れるかのごとき呼びかけのように響いてきた。そして第二コーラスの「見なさい!」という声に、まさに今ここで始まる楽劇に聴衆すべてを立ち会わせる為の高らかな「ファンファーレ」を歌い上げるかのごとき始まりだった。

ここで、本山秀毅教授の「受難劇を彩る人々」と題したプログラムの文から一部引用させて頂く。
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『「マタイ受難曲」には様々な登場人物が現れる。それぞれが「イエス」という大きな座標軸のまわりで、それぞれの個性や役割を持ちながら描かれている。(中略)さらにこの「受難劇」を彩る人々の人物像を深く観察することにより..... 聴き手にも単に傍観者として全体を俯瞰しているだけではなく、それぞれの登場人物の視点を持つことが求められ、そうすることにより更に深くこの偉大な作品を理解する鍵が得られるのである〜。』と。
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その通りの内容を表す演奏だった。前半の「臨場感」あふれる音楽、後半に至ってはさらにリアルにまるでその場面に居合わせているかのような錯覚を憶えるほどだった。

やはりエヴァンゲリストは若き語り手が良い。淡々とかつ表情豊かに語る歌い手が良い。そんなエヴァンゲリストの清水徹太郎氏には最後まで身近な親しみを持って聴くことができた。最初のコラールでこの合唱団も、そんなエヴァンゲリストの語り口に呼応し、ごく自然にその役割を演じるかのように第一曲とは違う表情で歌い始めた。このコラールの一曲目は何度聞いても良い。「心から愛するイエス…」今から始まる「受難」の出来事の前に自らの「信」を確かめるにふさわしい賛歌だ。

演奏は順調に進んで行った。途中、ソプラノのアリアでは、それまでとは異質なソリスト独特の世界に浮遊しているかのような音楽を味わったが、次へすすむエヴァンゲリストの現実的な語りにすぐに元の「受難」の世界に引き戻された。

よく知られたあのテノールのレシタティーヴォと続くアリアは、エヴァンゲリストがそのまま歌った。そう、代わることなくそのまま歌った。こうして聴くと「そのまま」が良かった。音楽が途切れないのだ。歌い手には酷かも知れないが、聴き手には、そのままの歌い手が変わることなくアリアも聴かせてくれたことが心地よかった。

後半に入り、受難の物語も佳境にさしかかってくると、一曲だけを除いて全ての音楽がますますリアルになってきた。その一曲は私の期待するものとは少し異なる印象の「アウス・リーベ」のことだ。この曲には器楽的なフルートと人間的なソプラノをいつも期待する。聖霊の導きのようなフルートと現実の人間の祈りのようなソプラノ。このアリアのソプラノは哀愁ただようプリマドンナでは決してあってほしくない。居合わせたもの全ての代表して祈る祈祷なのだ。歌い手がプリマドンナとして「歌」を聴衆に聴かせる要素は極力抑えてほしい曲なのだ。

ここで、出演者について是非とも触れて置きたいことがある。「登場人物」は多岐にわたる。出番がない「登場人物」もステージでは常に「脇役」として出演しているに等しい。前半ではじめと終わり以外は出番のないオブリガートのソプラノのユニゾン然り。全編にわたる両コーラスの存在はもちろん、ソプラノ・アルト・バスの各ソリストも然り。客席からは常にこの歌わないでいるときの「脇役」が目に入ってくる。全曲を通して、実はこれら出番のないときの出演者の姿勢に特筆すべき素晴らしいいものが多々あった。なかには出番のないときに「聴き手」になってしまっている出演者も目についたが、ほとんどの出演者は片時も休まず「登場人物」を演じていた。

最後まで、登場人物と一緒になって聴衆という立場を忘れて物語に巻き込まれ音楽に浸った「マタイ受難曲」だった。京都バッハ合唱団には、ただただ頭が下がる思いとともに、これからますます期待して演奏を聴き続けて行きたい。

[228] リアルタイムでドラマをみるような臨場感あふれるマタイ受難曲 投稿者:松田紳 投稿日:2012/03/21(Wed) 08:58  
受難節第4主日(3/18)から二日後の昨日(3/20)いずみホールでバッハのマタイ受難曲を聴いた。本山秀毅教授の「受難劇を彩る人々」と題してお書きになったプログラムの文から一部引用させて頂く。
『「マタイ受難曲」には様々な登場人物が現れる。それぞれが「イエス」という大きな座標軸のまわりで、それぞれの個性や役割を持ちながら描かれている。(中略)さらにこの「受難劇」を彩る人々の人物像を深く観察することにより..... 聴き手にも単に傍観者として全体を俯瞰しているだけではなく、それぞれの登場人物の視点を持つことが求められ、そうすることにより更に深くこの偉大な作品を理解する鍵が得られるのである〜。』と。
その通りの内容を表す演奏だった。前半の「臨場感」あふれる音楽、後半に至ってはさらにリアルにまるでその場面に居合わせているかのような錯覚を憶えるほどだった。


[227] クリスマス・ソングは「祈り」? 投稿者:Shin-san 投稿日:2012/01/04(Wed) 23:58  
この冬一番の寒さと言われた12月25日(日)のクリスマス当日、朝から教会の礼拝に出席、続く午後の祝会を済ませた後「ザ・タロー・シンガーズ」のクリスマスコンサートを聞きに神戸朝日ホールに向かった。着いたのが開演間際だったためすでに客席はほぼ満席。上手後方の奥にかろうじて座った。前回気になったテノールの一部分突出したかのような歌い方は鳴りを潜めてむしろそれが随所にメリハリを演出するかのような役割として出現するように変貌していた。
さて、いつものことながら演奏会から始めの3曲はアイドリング状態の探るような演奏で、持ち味が出てきたのは4曲目のプーランク「雪の夕暮れ」からだった。この最初の3曲は過去何度も聞いている曲でもあり、安定した演奏を期待していただけに「探るような演奏」には失望した。朝日ホールはその伝統的な雰囲気とあいまって「響きのよいホール」と言うのが定評。しかし、天井も低く奥行きも浅いこの朝日ホールは全体の容積に対し来場者の占める体積の比率が高い。その為、満席の状態ではしっかりと吸音設備の整った講演会場の様な響きとなってしまうようだ。この状態でアカペラは辛い。そこにいつもとは違うソプラノの後ろにテノール、アルトの後ろにバスという配列。十八番のプーランク「サルベ・レジーナ」が、おかしな具合に音程が定まらないうえ4パートがちぐはぐになって聞こえてきた。推測だが、予想外のホールのデッドな響きに慣れるまで時間を要していたのかも知れない。2曲目に移っても「探るような演奏」は変わらなかった。
2曲目のウィテカー、3曲目のエルガーはまさか練習不足?と思わせるような不安定さが目立った。何度も演奏してきた曲だけ練習不足はあり得ないだろうが、どちらも集中力を欠いたかのような印象だった。ウィテカー「ルクス・アルムクェ」の「あの美しい密集和音」が単なる「濁った不協和音」でしかなく始まり、その後も「探りながら音程が定まらない」状態が続いた。エルガーの「ルクス・エテルナ」もしかり。
続く第二ステージの「日本の歌」は、編曲の妙も相まって、アカペラ・コーラスの醍醐味をいつも通り存分に味わった。おそらくこのあたりが集客の良さとこのコーラスグループの人気の秘訣だろう。
ところで次の第三ステージの「クリスマス・ソング」を演奏するにあたって指揮者自ら。「クリスマス・ソングこそが『祈り』の音楽である…」と言っていた。お恐れながら Christmas song(s) とは教会音楽とは一線を画したクリスマス商戦用の世俗音楽の事を言うのではないだろうか。譲って「クリスマス・ソング」が「待降節と降誕節の聖歌(讃美歌)」指すとしても、「待降節と降誕日の聖歌(讃美歌)」=「祈り」というのは短絡的すぎる。むしろ「祝歌」のほうが納得できる。残念ながら「クリスマス・ソングは『祈り』である。」とあの場面でわざわざ指揮者が解説する必要がはたしてあったのだろうか。
最後のアンコールで演奏した「アカペラ版:流浪の民」は拍手喝さいだった。しかし、「アンコールの余興」としては秀逸だったが、これを演奏会のプログラムに入れるのにはいささか疑問。この「流浪の民」しかり。「冬の旅」で気を良くしてかシリーズで次期企画のことを耳にするが…。「二匹目のどじょう」はおそらく居ないのでは…。

[226] 神戸松陰のクリスマスコンサート 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/12/19(Mon) 01:25  
1892年に英国聖公会により創立された「神戸松陰女子学院大学」の主催によるクリスマスコンサートに昨夜(もう一昨日になったが)行ってきた。会場となった大学構内のチャペルの前には大きなクリスマスツリーが飾られ入口脇にもプレゼピオ(キリスト生誕の馬小屋の人形劇)が置かれていて、さりげない中にもクリスマスを迎える雰囲気を醸し出していた。プログラムも、巷の合唱団がこの時期行ういわゆるクリスマスコンサートとは違いアドヴェントの夕拝に相応した内容のものだった。コンサートは鈴木優人による奏楽から始まった。オルガンはイタリアやフランスの教会で聞いたあの独特の音色がした。調べて見るとここ神戸松陰のチャペルのオルガンは日本では珍しいフランス・クラシック・タイプのオルガンなのだそうだ。「夕拝に相応した。」と感じたのはプログラム後半に先立ちチャプレン(=聖職者の総称)により行われた「説教」と「祈祷」の所為だったかもしれない。そして何よりも「説教」を熱心に聞き「祈祷」を奉げる聴衆に最も強く「夕拝」と同じ気配を感じた。聴衆の持つ気配は、そのまま演奏にも反映した。
順に昨夜のプログラムを記す。(敬称略)
奏楽:N.d.グリニー作曲「うるわし海の星」鈴木優人(オルガン)
合唱:モンテヴェルディ作曲「マニフィカト」笠原雅仁(指揮)
二重唱:モンテヴェルディ「サンタマリア」辛川千奈美・先間惠子(ソプラノ)
二重唱:モンテヴェルディ「ヴェニテヴェニテ」北爪かおり・緋田芳江(ソプラノ)、
独唱:モンテヴェルディ「ラウダテドミヌム」山口和子(ソプラノ)
独唱:リガッティ「アヴェレジーナチェロールム」岡本雄一(テノール)
合奏:ラッソ「深き淵より」河内知子(ヴァイオリン)他
合唱:鈴木優人「詩編130番深き淵より」
<休憩>
オルガン:フレスコバルディ「聖体拝領のトッカータV」
クリスマス・メッセージ:坪井智
二重唱:モンテヴェルディ「オーディチェルム」乃村八千代・山口和子(ソプラノ)
二重唱:リガッティ「ニシィドミヌス」山口和子・乃村八千代(ソプラノ)
独唱:リガッティ「ラウダテプエリ」北爪かおり(ソプラノ)
合奏:チーマ「ソナタ」河内知子(ヴァイオリン)他
合唱:リガッティ「ラウダテドミヌム」笠原雅仁(指揮)
実を言うと一年ほど前にモンテヴェルディの「論理的・宗教的な森」全曲盤CD3枚組(演奏:カントゥス・ケルン)を買ったのだが未だに全曲は聞いていない。曲数が膨大なのもその一因だがひとつにはこの曲集に収められている音楽はライヴでしかもいわゆる演奏会ではなく例えばこのような音楽賛美礼拝で聞いてこそ真価が現れるものと考えていた所為もある。と言うわけで今回の演奏会とそのプログラムには大きな期待と関心を持って臨んだ。さて、その意味でも特筆すべきは後半の「オーディチェルム(Audi Coelum)」だ。曲もさることながら乃村八千代さんの演奏には目を見張るものがあった。曲からして指揮者はもたない形での演奏だったのだが、乃村さんはその音楽的表現でアンサンブル全体を引き連れ、まるで彼女が背中で指揮をしているかのような独唱者と合奏が一体となった演奏だった。またラテン語でさえも彼女の歌唱にかかるとすみずみまで命が吹き込まれ、たとえ早い動きのパッセージであってもその一言一句がモンテヴェルディのひとつひとつの音となって頭の中に語りかけてくるようだった。もうひとつ忘れられない演奏は、北爪かおりさんの歌ったリガッティの「ラウダテプエリ(Laudate pueri)」。「オーディチェルム」が「語り」とすればこの「ラウダテプエリ」は喜びの「歌」。教会の音楽は「賛美」であり「祈り」が必要だが、時としてそこには「歌」があって初めて満たされるものがある。この「ラウダテプエリ」には北爪さんだけが持つ天性の「歌」があった。
最後に、驚愕の後奏について少しだけ記しておく。ひとことでいうならば「恐るべし」カントール・オルガニスト鈴木優人」だった。曲はどれも有名な「ものびとこぞりて」「牧人ひつじを」「きよしこの夜」の聖歌3曲。なんと「もろびと…」は各一節が終わるごとに転調し一音ずつキーが高くなる斬新なもの。つづく「牧人…」「きよしこの夜」に至っては原曲の4パートの楽譜とは違う和声が付き(もしかして全部アドリブだったような?)まるで異次元に引き込まれたかのような不思議な興奮を憶えた。そうだ!きっとそうにちがいない!教会の後奏とはこのようにオルガニストによるその瞬間に作られ奏でられるべき音楽だったのだ。なにもかも他に類のない素晴らしいクリスマスコンサートだった。


[225] 愛(Aus liebe)を感じた演奏 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/11/27(Sun) 23:47  
11月23日、本山秀毅氏の指揮によるバッハのカンタータ4曲を聴いた。51番(BWV51)ソプラノ独唱乃村八千代さん、55番(BWV55)テノール独唱真木喜規さん、54番(BWV54)アルト独唱山本福久さん、56番(BWV56)バリトン独唱萩原寛明さんの4曲。大阪チェンバーオーケストラ、京都バッハ合唱団。相変わらずの本山先生の曲紹介にはいつも感心させられる。そのバッハ「カンタータ55番」の冒頭演奏を聴いて、アカデミックな解説とは裏腹に、何をおいても直感でこれは「マタイ受難曲」だと勝手に思った。調性(ホ短調:ト短調)と拍子(12/8と6/8)こそ違ってはいるがこれはまさに「我らの罪を背負って歩くイエスの様」を歌っているとしか思いようがない。そして3楽章のアリア「Erbarme dich!」で思わず手にしていたプロに「Aus liebe」と書いた。後でわかったがやはりこの曲の二年半後にバッハは「マタイ…」を作曲していた。思わずと言えば55番終曲のコラール「Bin ich gleich...」。147番の「Jesus bleibet meine Freude」ではないか!この55番は凄い。真木さんのレシタティーボからも「マタイ…」の福音史家を感じることができたし。ああ!もう一度聴きたい!何度でも。

[224] コーシェリ弦楽四重奏団 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/10/30(Sun) 07:41  
土曜の午後は思いのほか仕事や日常の家事雑事に追われることも多く、日頃から行く機会をつい逸してしまう音楽会も少なくなかった。昨夜もそんな状態だった。会場が比較的自宅の近くだったこともあり、作り置きしたカレーライスの香りを残したまま取るものも取らず思い切ってコーシェリ弦楽四重奏団の演奏会場に向かった。午後5時の開演2分前に到着するとほぼ満席の状態、運よく中ほどにぽつんと空いていた席に座るとすでに出演の4人が入場するところだった。女性ばかりの出演者はひとりひとりが個性的なカラーのドレスで身を包みそれでいて4人のドレスの色合いが全体にやさしいい色合いでバランスも良く取れていた。
昨夜は聴きごたえのあるプログラムだった。アンコールも含め約2時間の演奏があっと言う間だった。第一ステージはモーツァルトの第17番変ロ長調KV458「狩」で始まった。落ち着いたチェロが導くテンポに乗ってあとの3人がゆったりと奏でるモーツァルトだった。
ユニークなMCで始まった第二ステージは秀逸だった。英国の19世紀末〜20世紀初頭の作曲家でフランク・ブリッジという人の「幻想四重奏曲ヘ短調H.55」だった。はじめて聞く名前の作曲家の作品だったが、よく練られた演奏に曲の初めから終わりまで安心して聴き入ることが出来た。特に第二楽章の音の作りは英国ならではの自然や気候風土を彷彿とさせるものがあった。あとで調べたところによると当時は評価されず「前衛的?」とされ現代に至っても名を留めることができなかった作曲者だったそうだが、昨夜の演奏はむしろ親しみのあるいわゆる心地よい近現代のリズムや和声がほどよくちりばめられた印象深い作品だった。このフランク・ブリッジにコーシェリ弦楽四重奏団によって出会えたことは大きな収穫だった。
休憩後の今夜のメインはベートーベンのラズモフスキー3番だった。休憩中に書いたアンケートの「印象深かった演奏」設問に先のブリッジをすでに挙げてしまっていたのだが、このラズモフスキー3番を聴き始めた途端、早々とアンケートに書いた内容が全くの早計だったことに気が付いた。ラズモフスキー3番はベートーベンの16曲ある弦楽四重奏のなかでも皆目の周知するところの頻繁に演奏される曲と言われている。いわば、お気に入りの映画の台詞のごとく次々に次のフレーズが思い起こされてくるような類の曲と言ってもいい。そのフレーズは、ベートーベン特有の語り口調で語られる台詞のようなパッセージとなって畳み掛けてくるのだが、それが4人の演奏者の思い通りの滑らかさで語られ、それが自然で素晴らしい台詞となって聞こえてきた。変な例え方になるが、老舗の弦四重奏団のあまりにも上手すぎる台詞は却って気になったりすることもあるのだが、このコーシェリ弦楽四重奏団の語り口はそんな老獪さなどとはうらはらに素直に語りかけてくる小気味よいものだった。この今回のベートーベンを聴いてますます第2回以降の演奏会が見逃せないものになった。
アンコールも最後まで真剣さが伝わる演奏だった。昨夜はまるで近くにオープンしたてのビストロで思う存分のご馳走を食べた後のあの特有の感覚にも似た満足感に溢れる一夜だった。

[222] ウエズリーのアンセム 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/10/25(Tue) 13:06  
2011年4月17日に川西のみつなかホールで行われた同志社混声<シャンテ>7thコンサートでの演奏です。作曲者のSamuel Sebastian Wesley は19世紀英国の教会音楽の有数な作曲家で非常に多くの楽曲を残しています。静かでいて内には強い信仰心があふれている、そんな感じの作風がよく似合います。この演奏は2011年に実現したのですが、その数年前からあたためていました。日本の合唱団ではきわめて演奏することの稀な曲のひとつです。歌詞は聖書の聖句からそれぞれ取られており、中間部のアルトのパートソロで少しテンポを早めて歌われる部分は有名な「主の祈り」です。
本国(英国)ではオルガン伴奏で聖歌隊や合唱団で歌われているようですが、ここでは日頃から慣れ親しんでるピアノ伴奏で演奏いたしました。ピアノならではの物静かな語り口が全体の雰囲気を上手く支えてくれています。


[221] 無題 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/10/25(Tue) 10:13  
2008年に演奏したときに編曲した「歌の翼に」を2011年の本番(同志社混声<シャンテ>7thコンサート:川西みつなかホールにて4/17に行われた)の数週間前にアンコールとして再び取り上げるた時の演奏です。2008年当時はSATBで編曲したのですが2011年時点ではソプラノが多かったのでSSATBに再編曲しました。伴奏のアルペジオはは通常6/8の16分音符を6+6で引くわけですが、ピアニストの田中景代さんには2+4、2+4で弾いてほしいとお願いしました。今思うとプロのピアニストに向って素人マエストロが無茶なことを言ったものだと思います。あらためて演奏を聴くとほんとに微妙にそのあたりを心得て弾いてくださっているのがわかります。素人マエストロに優しいピアニストさんで良かったです。
この曲は、親しまれた外国曲を日本語で歌いたい、というところから2008年の演奏会で取り上げたのですが、日本語の歌詞(訳詩)がいろいろあって迷いました。どれも良く似ていて少しずつ違っていました。結局「歌の翼に君をのせて…」ではじまる藤浦洸氏の歌詞が私の子供の頃の記憶に深く刻まれていたので、その歌詞を採用させていただきました。今あらためて聴くとホントに<遅い>「歌の翼に」です。合唱も歌いにくかったに違いありません。我儘な指揮にに我慢して付き合ってくださった合唱団の皆さんにはホント感謝いたします。


[220] いとしい女(ひと) 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/10/17(Mon) 11:42  
今年の夏は楽しいいことがいろいろありました。これは、CCD(Collegiate Choral Doshisha)の1976卒の同期会に参加したときのものです。5年に一回の同期会ですが、早混の同じく1976卒のかたも加わって、このときは翌日に白馬美術館の小さなホールでコーラスのコンサートを開きました。カロミオベンはコンサートの前日、みんなでそろって宿泊していた「あぜくら山荘」で夕食後のひとときを楽しんでいたとき余興で私が歌ったものをDVDに撮ってくださったものです。気の置けない友人知人に囲まれて、情感を込めて歌うことができました。 この年齢(来月で60)になって、やっとこの詩(うた)の想いを少しだけですが理解できたような気がします。


[219] 満足したものの違和感を残す演奏 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/10/09(Sun) 16:02  
昨夜のタローシンガーズの演奏会では期待した通りの音楽を楽しんだ反面随所に違和感を覚えた演奏だった。終演後一緒に行った二人に感想を求めたところ同様の印象を持った、と聞かされた。
第一ステージは有名な5声と4声のアレグリの「ミゼレーレ」。特筆だったのは4声(4重唱)のユニット。一応SATBなのだが、昨夜は女声3名+男声1名。Tを男声のテノールにしなかったことでこの曲のもつ内面的音楽が見事に表現されていた。あらためて言うが女声の歌った4声のほうのテナーパートはまるで老練な弦楽四重奏のビオラ奏者がかなでる控えめでいてしっかりした音楽を作り上げていて今まで聞いたことのないこの曲のアンサンブルを作り出していた。
第二ステージのスカルラッティでうけた印象は、チェロとオルガンの通奏低音が加わった所為だろうか、従前のアカペラだからこその緊張感がなく合唱全体に緩んだようなスキがここかしこに見受けられる何とも今までのタローシンガーズ<らしく>ない演奏だった。さらにあるテノールの声(後列中央付近)が常にビブラート過多のしかも他の全体のアンサンブルになじまない目立った歌い方に聞こえてきてそれが最後まで引っかかって、落ち着いて曲として音楽を聴くことが辛い印象だった。さらにそれは最後のアーメンでもっとも顕著になり、それまでのタローシンガーズならではの「曲の終わりこそ聴く者を唸らせるような音楽」とはほど遠い終わり方だった。
さて、休憩後の第3ステージのメンデルスゾーンはおなじみの曲(作品78、詩編2番・43番・22番)ということもあり楽しみにしていたプログラムだった。しかし、残念なことに私のうけた印象は、前ステージのあるテノールのいままでと違う歌い方が他パートにも微妙に影響したのか全体に荒っぽい演奏ではじまった。特にソプラノは今までのタローシンガーズが保ってきた「ひとりひとり個性は違っていてもパートがひとかたまりにパートとして聞こえてきたもの」が、このメンデルスゾーンでは妙にがさついて聞こえた。また、シューベルト(冬の旅)であれほど聞かせてくれたドイツ語も、まったく「らしくない」ひとことひとことが繋がらない印象の演奏だった。不思議なことにこのステージのあと横で一緒に聴いた二人も含めて3人が「??音が微妙に下ったのでは…」という同じ感想をもらしたのだった。
第4ステージのプーランクの宗教曲は良かった!!期待通りだったし、楽節の各フレーズ両端での特に内声パートの細部の音の不安定さなどほとんど気にならないほど全体ではよく音楽を聞かせてもらえた。特にアンコールでのサルベレジーナは今までのプーランクの中でも最高だった。拍手!!…ということで満足してホールを後にしたのだった。
いつものなら終演後の秋の夜長を「プロ合唱団」の演奏の心地よさと満足感に浸りながらその日を終えるのだが、今回のタローシンガーズの演奏は妙に奥歯にものが挟まったままのような違和感を覚えて眠りにつく、そんな演奏会の夜だった。

[218] 生身のバロック 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/03/28(Mon) 00:31  
昨日3月26日(土)は延宝2年(1674)に建てられたという伊丹郷町にある旧岡田家酒蔵で開かれた「〜イタリア・バロック 黎明期〜」という副タイトルのコンサートに行ってきた。題して「イタリアに恋して 3」。出演者の進行役はバロック・バイオリンの坂本卓也氏。出演は加えてソプラノの北爪かおりさん、アーチリュートの小出智子さんとバロックギター/アーチリュートの佐野健二氏の全部で4名のアンサンブル。三月も終わりというのに、夜6時開演の会場(酒蔵)はほとんど真冬の寒さ。その自然な寒さと薄暗い照明が非現実の現代離れした空間を演出しているかのような不思議な雰囲気のうちに演奏がはじまった。
前半のプログラムはウッチェリーニ、フレスコバルディ、マリーニの「ソナタ」や「アリア」が続いた後モンテヴェルディの「喜び踊れシオンの娘よ」で、ひとまず休憩。後半はカッチーニとナウバッハのそれぞれ同名の作品「アマリッリ麗し」の後に、フォンターナの「ソナタ」を挟んでモンテヴェルディの2作品が演奏された。特に後半は演奏者も観賞者も寒さに慣れてきた所為かどうかはわからないが、リズムに乗った演奏が会場全体を包み込む展開となった。しかし、何と言ってもこの演奏会全体を引っ張っていたのは北爪かおりさんのソプラノだった。その飾らない歌声は、バロック・バイオリンやリュートの自然な響きに奥深い輝きを与え、いつしか「歌の語り手」の世界に我々聴くものすべてを引き込んで行った。
私は同じイタリアでもルネサンス(特にパレストリーナ)はなぜか「他人行儀」で白々しくなじめない。その点、この時代のモンテヴェルディに代表される(初期)バロックは生身の気持ちが感じられて、親しみが沸く。それはローマとヴェネチアの違いなのだろうか。プロテスタントに対抗したローマ・カトリックの片意地のなごりから来ているものと、自由貿易を背景にしたヴェネチアの土地柄から培われたものとの違いだったのだろうか。
この酒蔵での夜は幸いにも「歌の語り手」北爪かおりさんとともに「生身のバロック音楽」をこころゆくまで堪能した大満足の演奏会だった。

[217] 廣澤敦子メゾソプラノリサイタル 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/02/06(Sun) 17:27  
2月6日(日)、節分も過ぎ、穏やかな日和となった冬の午後、芸文小ホールに「廣澤敦子メゾソプラノリサイタル」歌物語第5巻<おんなたちの物語第二章>を聴きに行ってきました。
期待通りの大満足でした。前半は、シューベルト、シューマン、リストと続き、圧巻はリストの「火刑台のジャンヌダルク」でした。廣澤敦子さんの本領発揮ともいうべき、まるで小ホールが大劇場とも思えるほどの奥行きのある演奏に魅了されました。その前のシューベルトとシューマンもバランスよく配置された選曲で、特にシューマンは、長谷智子さんのピアノと相まってまるで「メゾソプラノ・ソナタ」を聴いているかのような錯覚に襲われる、素晴らしいものでした。
さて、後半の「日本語」の歌曲は、廣澤敦子さんならではのプログラムで、これなしには帰れません。演奏の間には、あのいつもの「黒バインダー」を見ての語りが挟まれ、次第に作品が持つ世界に引き込んで行く手法は、まさに歌曲を深く知り尽くした廣澤敦子さんならではのものでした。プログラム最後の千原英喜:曲・瀬戸内寂聴:詩「ある真夜中に」では、聴きながら思わず「涙」してしまいました。
次回は2012年の2月12日(日)おなじ芸文小ホールだそうですが、一年が待ち遠しくなりそうです。

[216] 新年早々〜パート U 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/01/18(Tue) 12:33  
先の書き込みのつづき。その「あること」についてです。興味のない方はここは飛ばしてこの下の演奏会の書き込みだけを読んでください。

2011年1月9日「ザ・タローシンガーズ」のニューイヤーコンサートを妻とそれぞれの実家の母との4人で聴きに行った。入場券は前売りで4人連席の全席指定のチケットを主催者から購入していた。ところが開場後、会場内で1階の中ほどにある指定席に着こうとすると4席のうち2席にはすでに人が座って居る。「席をお間違えですよ。」と注意すると、憮然とした顔でこちらを見る。とした時、案内スタッフがそばに寄ってきて「N列はすべて二重売りなので、ロビーで次の案内をするまで待ってほしい。」と言われる。何のことか一瞬理解できないでいると、居合わせたほかの客から、「私たちも待たされている。」と言って、私が手にしている指定券チケットとは違う種類の少し大きめのチケットを見せられた。どうやら、『ホールの当日券と前売り券とで重複して販売したのでは?』と推測する。ならば、座っている人に非はないわけで、とりあえずスタッフの案内に従うことにした。幸いに指定席2席には誰も座ってはいなかったので、そこに母達を先に座らせ、案内スタッフの「代表で1名のかた、付いてきてください。」の言葉に従いロビーに出る。
ロビーにでるとすぐに、そのスタッフは「チョッと上のものに聞いてきます。」と言ってその場を立ち去ってしまった。かれこれ15分ぐらい待たされたあげく、突然「代わりの席を用意しますので、こちらへどうぞ。」と言って戻ってきたあと、こんどは会場外の当日券売り場のボックスのほうに出て行ってしまった。そこで、その当日券ボックスらしきところに行ってみると、数人の客を相手に別の女性のスタッフがボックスの横で対応していた。「何名様ですか。席はこちらでよろしいいですか。」などと言って、2〜3人ずつ客のチケットを他の席のものと交換してる。どうやら、二重売りに巻き込まれて席をはじかれた客は、この女性スタッフから別の席をあてがわれて、手持ちのチケットと交換しなくてはならない、ということらしい。
よく見るとボックスのなかにも支配人らしき男性が居たので、「一体どういうことか。私のチケットが使え無いのなら、それはわかった。ただ、交換する前にまずは返金するのが筋だろう。今、ここで返金は無理でも、口頭でいいからそのコミットだけでもここでしたらどうなんだ。然るべきのちどうするかは…。」とそこまで私が問うと、その支配人はそそくさと会場内に走り去って行ってしまった。
私には、『この習慣はなじめない』。会場の不手際は、してしまったこととして認めよう。誰にもある。ただ、その不手際を一切認めようともせず、『とにかく、代わりの席を用意すればいいのだろう。』とでも言いたげに、それすら口にせず「チケットを交換することで」その場から逃れようとしているこの会場側には、あきれるばかりだ。不手際にしても、その対処にしても、すべからく一方的過ぎる。説明もなければ、こちらの意向を聞こうともしない。
と、しばらくしてその支配人らしき男性が戻ってきて「ただいま主催者に了解をもらいましたので、後ほど返金するようにいたします。」というが早いか、私の手にある前売りチケットを別のチケットと交換しようとする。「3階の席になりますが、こちらにお代わりください。」その支配人は私にチケットを差し出し、私のチケットを貰い受けようとする。私としては、一旦購入したチケットはあくまで私のもの。交換するなら「返金」したときにしか返却するつもりはない。代わりの席は、後始末として先方が差し出してきたもの。ひとりなら演奏を聴くのは取りやめ帰ってしまっても良いのだが、会場内には母達が待っている。妻も楽しみにしていた演奏会だ。とりあえず差し出された代わりのチケットを受け取り、元のチケットは手に持って会場に戻ることにした。
会場に戻ろうとすると、先ほどの支配人らしき男性が何か言いたげについて来る。すでに開演時間は過ぎている。ここでいちいちその支配人らしき男性の話を聞く気にもならない。そこで名刺を受け取って、妻と一緒に3階に駆け上がった。
どうやら、開演は遅らしているらしい。3階からちょうど1階席の母達が見える。周りをしきりに見渡している。母達は私たちが3階に代わったことは知らされていない。このことについての会場内のアナウンスは無い。私は急いで1階の母達の居る席まで駆け降りた。母の横が空席だったので、そこにとりあえず座ると、簡単に席が変わったことを伝えた。すると、母から「さっき、会場案内のスタッフから、この席を空けるように言われたけど、いわれのないことなので断った。」と聞かされた。まったく、会場のスタッフは一体どうなっているのだろう。3階に戻るために立とうとすると、突然、ステージに出演者が入場し開演してしまった。しかたなく、前半のバッハは、その場所で聴いた。その後、第二ステージの武満徹が始まるまでの間に、3階に戻ろうとしたが、間に合わず、一曲目の「さくら」は3階のロビーで聴く羽目になった。


以上が、「続く前半第二ステージは、その「あること」の所為で落ち着いて聞くことができず残念。」の理由。

ところで、後日、その支配人らしき男性の名刺に電話して聞いたところ、二重売りの顛末を次のように教えてくれた。
実際は、ホールの当日券が二重に売られたのではなく、『ホールが販売割当となっていた席のうちN列がコンピューターからの情報の不具合で未販売と認識され、主催者側が前売り段階で間違ってその前に二重売りしてしまった席の代替席として、そのホール側の未販売と認識された席を振り替えて割り当てたところ、実はそのホール側の席も既に販売済だったことがあとで分かり、当日の対応となった。』との説明を受けた。主催者には、「マネジメント」も聴く側には演奏のうち、と肝に銘じてほしいと願う新年早々の演奏会だった。

[215] 新年早々〜パート T 投稿者:Shin-san 投稿日:2011/01/18(Tue) 09:56  
タローシンガーズの演奏を「ニューイヤー・コンサート(1月9日午後2時開演)」でしかも西宮の芸文(KOBELCO)大ホールで聴いた。
プログラムも演奏もほぼ満足の行くもので良かったが、今回は「あること」が原因で最良の状態で聴くことができなかったことが悔やまれる。
その「あること」は後で触れるとして...。
最初のステージのバッハ「モテットT」は安心して聞いた。やはり、タロー・シンガーズならではの編成各パート3人ずつアカペラで、この曲を存分に楽しませてもらった。
続く前半第二ステージは、その「あること」の所為で落ち着いて聞くことができず残念。
後半は、いわばCDアルバムで言うところの「コンピレーション」で、こういったアルバムのアレンジにありがちな「デコレーション」過多の音楽が続いた。プログラム構成としては、イタリア料理に例えて言うと、最初に「肉料理」、次に「パスタ」、最後に延々と和風素材を使ったパティシエ力作の「ドルチェ」が延々と続いたような感がした。料理の中身そのものは悪くはなかったが、希望を言えば、後半の「ドルチェ」の幾つかは「前菜」として聴きたかった。今回のプログラムの配列には、どんな主催者の意向があったのだろう…。
演奏は、いつものことながら、いわゆる「トラ」の存在がバランスを崩していたのが気になった。2年余り前のプーランクの「ミサ」ほどひどくはなかったが、今回は特にテノールの「大トラ」と、ソプラノの「子トラ」が、時に突出したのが気になった。いつも思うが、「トラ」は大人しくしていてほしい。
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[214] タローシンガーズの「冬の旅」 投稿者:Shin-san 投稿日:2010/06/28(Mon) 11:39  
昨日はタローシンガーズの「冬の旅」を聴きました。もちろんミュラーの詩、シューベルトの曲によるあの「冬の旅」のことです。新聞にもアカペラコーラスによる世界初演となる「冬の旅」と書かれていたので会場はキャンセル待ちも出るほどの空席皆無の満席でした。私もどんな編曲でタローシンガーズがそれをどのようにこなすかという興味もあり日曜の午後友人とともに早々にいずみホールに出かけて行きました。演奏はというと、これはもう作曲者千原英喜氏と里井宏次氏率いる完全なるタローシンガーズとのコラボレーションによる目を見張るような音楽作品でした。昨日の演奏には、まさにタローシンガーズの真骨張を聴かされた、という印象でした。24人のアカペラのコーラスでドイツリートを演奏する。いままで気付かなかったことが不思議なくらい、タローシンガーズででしか演奏することができない仕上りの音楽作品となっていました。
さすがに、世界初演ということからくる意識からか、第1曲目は少し不安定に始まりましたが、2曲目以降は慎重に進み、特に後半12曲になってからは素晴らしい安定感のある演奏でした。千原英喜氏の編曲は、編曲と言うよりむしろ作曲に近く、過去20世紀に多く見受けられた過度で複雑な編曲群とは一線を画した、落ち着いていてなお新しくもある21世紀の音楽作品と言うものになっていました。その控えめなうちにも秘められたこの作品の持つ気迫から来るものは、いつもは余裕で演奏してきたタローシンガーズにもずっしりとした重みのある真剣さを与え、精細な緊張感のある音楽を最後まで導き出していました。
惜しむらくは、テノールのパートソロによる主旋律です。タローシンガーズのテノールの特性は美しすぎるほどの音色です。詩を語るドイツリートの主旋律にとしては多少の違和感を抱いたのは私だけでしょうか。
さて、とりもなおさずこのコラボレーションは21世紀のアカペラコーラスの新境地を開拓したものとして強くこころに刻まれた演奏会でした。これからもシューベルトに限らずこのような形での音楽作品の演奏の創造にタローシンガーズが進んでいくことに強い期待と願いを馳せるきっかけとなった今回の演奏会でした

[213] ラ・ステッラのコンサート 投稿者:Shin-san 投稿日:2010/06/07(Mon) 10:24  
プログラムにアヴェマリアの対訳を掲載していただいたご縁で、昨日は「ラ・ステッラ」の 2nd Concert (大阪:ドーンセンター)に行ってきました。
とっても良かったです。たった12人での女声コーラスに感嘆いたしました。みなさん音楽の才能をお持ちで、ソロもピアノ伴奏も朗読もそして編曲までもすべてその12人の中でこなしておられました。
アンコールも入れて全22曲が楽譜を持たない演奏だったことも合唱団の演奏と言うよりは12人の女声によるリートのような印象で音楽に気持ちがすんなり入って行けるとても良い雰囲気の演奏会でした。また、指揮をされた太田務先生の歯切れの良いテンポや、グルーヴィーなリズムにも最後まで魅せられ続けました。
終演後、出演者のおひとりから「<アルカデルト>に苦労した」とお聞きしましたが、その苦労されたアルカデルト(のアヴェマリア)も実に素敵なアップデイトなサウンドの編曲で綴られてた、ラ・ステッラならではの私にとって新鮮なアルカデルトでした。次に続く星のステージでの「北極星の子守歌」も、太田先生の三拍子のリズム感とテンポが心地よく、その指揮にたいする演奏のレスポンスが細部までクリアに呼応して、躍動的でかつ叙情あふれる演奏でした。
四つの沖縄の歌には驚かされました。特に最後の「舞の歌」の沖縄独特なオフビートには、思わず身を乗り出して一緒に踊りたくなる感覚を憶えました。
ラストの「POPPER'S CLUB FEMME」には感心いたしました。オリジナルにとらわれず、とても自由な発想の音楽に充分に楽しませていただきました。ラ・ステッラが単なる合唱団ではなく「演奏家の集団」であることをはっきりと認識したステージでした。
最後にびっくりしたのはアンコールの「星に願いを」です。団員の芦田さんが編曲されたとのご紹介を受けましたが、あれだけスイングできる編曲なさった才能にはびっくりしました。またその特に三拍子のスイングを見事に演奏された皆さんにはこころから拍手いたします。
今回が第二回のコンサートと言うことでしたので、次回が本当に楽しみです。

[210] 西本智実ニューイヤーコンサート 投稿者:Shin-san 投稿日:2010/01/18(Mon) 10:30  
きのうは、神戸のポートピアホールで西本智実ニューイヤーコンサートを聴いてきた。
久しぶりにワクワクした音楽会だった。そう、音楽好きな少年だった頃、あのころ毎日のようにクラシックのレコードばかり聴いていた頃。そのころ夢見ていた音楽の世界がそのまま戻ってきたかのような、そんな演奏だった。音楽が素直に大好きだったころの感覚が蘇ってきた…。
少年の頃の音楽との過ごし方。ひとつの曲をなんどもなんども聴いてその曲が全部が頭に入った状態。そう、例えば大好きな「おはなし」を字が読めない小さな子どもが母にせがんで聞く、話の続きも結末もわかっているのに何度もはじめから聞く。そんな音楽との過ごし方。バイオリンがこう語り、ビオラとチェロが応えて、突然テンポが変わって管がしゃべりだす。一人のオーボエがおもむろに過去を語り、弦が大勢で慰める。ああ、毎日音楽を親友として過ごした少年の頃の音楽。西本智実にはそんな音楽がすみずみまであった。
西本智実が、国内よりも海外でより多く活躍することになった理由のひとつには、私が感じたような少年が持つ音楽の「近しさ」にあるのかもしれない。こんな「智実流」を受け止めてくれるようなオーケストラは国内にはみあたらない…、のかも。
ひとつ思い出した。十年ほど前のこと。東京ニューシティー管弦楽団の創始者で主宰の内藤彰氏に、ある演奏会のレセプションでお話しを頂戴した時のこと。「オケのメンバーにいつも言っていることは、少年少女のころ音楽が好きで好きでたまらなかったあの感覚を忘れず持ち続けて演奏してもらいたい。」と話をされた。その演奏会ではわたしは合唱団の一員、オケがその東京ニューシティー管弦楽団だった。そのときの指揮者は、終生敬愛していた林達次先生の最期のタクトによるブラームスのレクイエムだった。内藤氏を引き合いにしたのには訳がある。彼は、私がまさにその少年だった頃の合唱部の先輩なのだ。
来年も、必ず西本智実ニューイヤーコンサートを聴きに行こう。

[209] 京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団 投稿者:Shin-san 投稿日:2009/12/07(Mon) 10:33  
昨日、久しぶりに京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団の演奏を聴いた。曲はメンデルスゾーンの「エリアス」、会場は京都コンサートホール(大)。ソリストは、釜洞裕子さん、寺谷千枝子さん、波多野均さん、そして田中勉さん。指揮はアグネス・グロスマンさん、オケは京都市響。
西宮から京都の北山まで出向くには、日曜と言うこともあり午後2時半の開演には間に合わず、第二部からの鑑賞となったが、それにもかかわらず心から満足できる好演だった。
まずソロに魅了された。4人の異なった個性が、それぞれの手法で発信するメッセージを気持ちよく受け止めることができた。指揮、オケ、コーラスも均整が取れメンデルスゾーンの音楽が語りかけて来るの自然に受け止めることが出来た。やはり京都ゲヴァントと大阪ゲヴァントの合同ステージならではの懐の深い音楽の所為なのだろうか、久しぶりに演奏を堪能した。
演奏の全体での仕上がりがそれだけ良かっただけに、先日あるかたが「観客ではなく指揮者に向かって音楽を発している合唱団が多い」と嘆いていたことをふと思い出した。確かに京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団と言えども、「指揮者に向かって」、中には「楽譜に向かって」音楽が発せられていたようなところが散見する演奏も曲によってはあった。やはり言葉(ドイツ語)の限界かも。
「エリアス」は初めて聴いた楽曲だったが、この演奏会のプログラムに書かれた曲目解説により、より深く鑑賞することが出来た。思わず、演奏会後のメールに「メンデルスゾーンの内なる迷いと信仰が滲む演奏でした。ゲヴァントハウス健在でなにより」と書いた。

[208] バンクーバー室内合唱団 投稿者:Shin-san 投稿日:2009/11/15(Sun) 19:10  
先日、カナダから来たバンクーバー室内合唱団の演奏会を聴きに行ってきた。平日木曜の夜、長岡京文化会館ホールと言うのに開演前にもなるとなんと満席?!
演奏はというと、わざわざ聴きに行った甲斐もあり、想像通りというか、今まで聞いたことがないほど素晴らしかった。会場の雰囲気も良かった。
合唱団の構成は各パート5人の丁度20人。
聞いてると声部がひとつになって、ひとりの声のように聞こえてくる。一方で、曲中でソロを取った時には、個性あるソロが聞こえてくる。ひとりひとり個性をいかしながらコーラスとしてアンサンブルしているのは、プロのなせる業か。
聞いていて、印象的だったのはフレージングの気持ち良さ。全員ぴったり息が揃っていること。また、ダイナミクスも全員がそろって微妙な表現している。コーラス特有の<>が緻密に計算されたようにきれいに聞こえてくる。
ことばが、(発音)のタイミングが気持ちいいほどすっきり。よく聞くと、母音は多少違いがあるように聞こえた。ところが、発音のタイミング合っているので、母音の発音に違いは、楽器の音色の特徴ほどの差としか感じられない。
プログラムは日本の歌や、フォスター・メドレーなどを入れてカジュアルなものにしていた。また、現代カナダの作曲家のものとか、いわゆる「フォークロア」的なものも楽しかった。個人的にはもっと教会音楽などプログラムに入れて欲しかったが、これはCDを買って帰った。
入場料の何倍もの価値ある演奏会だった。

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