[232] 京都バッハ合唱団の「マタイ受難曲」 投稿者:松田紳 投稿日:2012/03/21(Wed) 11:39
受難節第4主日(3/18)から二日後の昨日(3/20)いずみホールで京都バッハの奏でる「マタイ受難曲」を聴いた。
まだすこしばかり肌寒い風がふくなか、それでも「お彼岸」の日差しはやがて来る春を感じるに十分だった。 座席引換開始には遅れて行ったものの何故かH列という良い席を頂戴した。
冒頭の第一曲目がどのように始まるかじっと見つめるなか、指揮者のタクトは、端正なかつ少しばかり軽やかなテンポを要求するように動いた。奏者の中にはそれに素早くついて行くもの、あるいは受難曲という題名がもつ重々しい印象のまま弾き始めるものが入り混じり、ほんの一瞬の戸惑いがあるかのようだった。しばらくオケと指揮者のその戸惑いの対話が続いた後、第一コーラスが「来たれ、娘たちよ…」と歌い始めると音楽ははっきりと主張し始めた。それは、まるで今からエルサレムの街ではじまる物語に、聴衆を招き入れるかのごとき呼びかけのように響いてきた。そして第二コーラスの「見なさい!」という声に、まさに今ここで始まる楽劇に聴衆すべてを立ち会わせる為の高らかな「ファンファーレ」を歌い上げるかのごとき始まりだった。
ここで、本山秀毅教授の「受難劇を彩る人々」と題したプログラムの文から一部引用させて頂く。 ------- 『「マタイ受難曲」には様々な登場人物が現れる。それぞれが「イエス」という大きな座標軸のまわりで、それぞれの個性や役割を持ちながら描かれている。(中略)さらにこの「受難劇」を彩る人々の人物像を深く観察することにより..... 聴き手にも単に傍観者として全体を俯瞰しているだけではなく、それぞれの登場人物の視点を持つことが求められ、そうすることにより更に深くこの偉大な作品を理解する鍵が得られるのである〜。』と。 ------- その通りの内容を表す演奏だった。前半の「臨場感」あふれる音楽、後半に至ってはさらにリアルにまるでその場面に居合わせているかのような錯覚を憶えるほどだった。
やはりエヴァンゲリストは若き語り手が良い。淡々とかつ表情豊かに語る歌い手が良い。そんなエヴァンゲリストの清水徹太郎氏には最後まで身近な親しみを持って聴くことができた。最初のコラールでこの合唱団も、そんなエヴァンゲリストの語り口に呼応し、ごく自然にその役割を演じるかのように第一曲とは違う表情で歌い始めた。このコラールの一曲目は何度聞いても良い。「心から愛するイエス…」今から始まる「受難」の出来事の前に自らの「信」を確かめるにふさわしい賛歌だ。
演奏は順調に進んで行った。途中、ソプラノのアリアでは、それまでとは異質なソリスト独特の世界に浮遊しているかのような音楽を味わったが、次へすすむエヴァンゲリストの現実的な語りにすぐに元の「受難」の世界に引き戻された。
よく知られたあのテノールのレシタティーヴォと続くアリアは、エヴァンゲリストがそのまま歌った。そう、代わることなくそのまま歌った。こうして聴くと「そのまま」が良かった。音楽が途切れないのだ。歌い手には酷かも知れないが、聴き手には、そのままの歌い手が変わることなくアリアも聴かせてくれたことが心地よかった。
後半に入り、受難の物語も佳境にさしかかってくると、一曲だけを除いて全ての音楽がますますリアルになってきた。その一曲は私の期待するものとは少し異なる印象の「アウス・リーベ」のことだ。この曲には器楽的なフルートと人間的なソプラノをいつも期待する。聖霊の導きのようなフルートと現実の人間の祈りのようなソプラノ。このアリアのソプラノは哀愁ただようプリマドンナでは決してあってほしくない。居合わせたもの全ての代表して祈る祈祷なのだ。歌い手がプリマドンナとして「歌」を聴衆に聴かせる要素は極力抑えてほしい曲なのだ。
ここで、出演者について是非とも触れて置きたいことがある。「登場人物」は多岐にわたる。出番がない「登場人物」もステージでは常に「脇役」として出演しているに等しい。前半ではじめと終わり以外は出番のないオブリガートのソプラノのユニゾン然り。全編にわたる両コーラスの存在はもちろん、ソプラノ・アルト・バスの各ソリストも然り。客席からは常にこの歌わないでいるときの「脇役」が目に入ってくる。全曲を通して、実はこれら出番のないときの出演者の姿勢に特筆すべき素晴らしいいものが多々あった。なかには出番のないときに「聴き手」になってしまっている出演者も目についたが、ほとんどの出演者は片時も休まず「登場人物」を演じていた。
最後まで、登場人物と一緒になって聴衆という立場を忘れて物語に巻き込まれ音楽に浸った「マタイ受難曲」だった。京都バッハ合唱団には、ただただ頭が下がる思いとともに、これからますます期待して演奏を聴き続けて行きたい。
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